Be a runner with peple and tree


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「伴走者」という言葉が熱い。目指すべきは、これかもしれないと思ってきた。

ほぼ日刊イトイ新聞」の記事で糸井重里さんと作家の浅生鴨さんの対談が載っていた。最近思ってたことを全部言われた気がした。(対談のタイトルも「動機がなくても生きていい」だし)彼が書いた小説のタイトルが「伴走者」。

※伴走者とは、視覚障害のあるマラソンランナーに伴走する人。私のなかのキーワードは「他人を勝たせるために必死になる」「パラスポーツ選手と観客の間の役割」

 

昨日の庭師の親方さんの話を振り返る。
「木をバサッと太いところで切ったら、ブワッとそこから芽吹くじゃん。そこから良い枝を選んで残してあげるんだよ。木は自然と樹形を保つものだけど、変に切ったら変に芽吹いちゃうんだ。だから手助けしてあげるようなもんだね」

つまり、こうだ。木は全く切らずにそのままにしておくと、ちゃんと樹形を保つ(人間の手が入っていない山の木は、なんとなく樹形を保っている)。ただ庭にある木は、庭の持ち主(もっと言うと人間)の要望で、ある程度の高さに留めたり、太いところで枝を払ったりしてあげなければならない。そうして枝を詰めた翌年、アッチコッチへ枝を伸ばす。その姿が、(人間から見ると)見苦しいように見える。そこで元の樹形に戻るよう手助けしてあげるのが、庭師の仕事だ。

つまり、庭師は人間側から見ると、「庭に関するご意見番」、木からすると「伴走者」になるのではなかろうか。

 

(私のお世話になってる庭師の親方さんに限るのかもしれないが)、「敬遠される職人」「粗野な職人」ではない(もちろんそういう歴史はあるが)。「気軽に相談できる、庭のご意見番」。私のなかでは、これがぴったりの言葉だと思う。